平井志茂町囃子保存会
黄金色の稲穂が重く稲田に傾きかける頃、郷愁を漂わせた平井祭礼が春日神社を氏神として、9月28日~29日の両日(現在は直近の土、日)盛大に行われる。この平井祭礼の歩みと共に生き続けてきたのが平井志茂町の囃子で歴史は古く、明治18年頃までさかのぼる。
当時、いまの埼玉県所沢市に江戸末期の安政年間1,850~60年頃生まれた重松囃子の発祥人古谷重松は関東近県を行商していたが、明治18年のある日、平井志茂町のとある家(濱名彦右衛門家)の蔵に一夜を設けた。平井志茂町にはそれ以前から囃子好きの海塩兼太郎(獅子)海塩繁三(笛)海塩仁三郎(太鼓)小山丑五郎(かね)田中染次郎(おかめ)らがおり、古屋重松はその日から半年間農家の片端の物置小屋等を利用し、海塩繁三らに口うつしで重松囃子を教え込んだと言われる。
その時の原形が三代にわたる郷土芸能に理解のある人々によって変形することなく今も残っているのが平井志茂町の囃子である。これまでの歩みの中には、部落の若衆が山の芝刈りに仕事を忘れ、即席の舞台を山中に掛け、暗くなるまで囃子を興じていたため、家族が心配し提灯に明かりをともして迎えに行ったなどのエピソードが残っているなど、娯楽即囃子に結びつくほど囃子は部落民の心の中に染み込んでいたことがこの例から如実に窺い知る事が出来る。明治26年には、9月の祭礼に繰り出す山車が部落民の協力によって完成。その後明治後期から大正にかけて平井下町の囃子が本流となり秋川流域に重松流の囃子が伝承されていったと言われ、秋川の清流に磨かれた軽快で艶のある囃子を聞かせてくれる。
最近では四代目、五代目と囃子を習う若者が増え、親子そろって山車に登場する微笑ましい風景が見られるなど、老練なバチさばきと若者の響きである平井志茂町の囃子は、いまや部落民の心の中に溶け込み親しまれている。